今この瞬間を全力で体験する 3-2

108さんの動画『今この瞬間を全力で体験する 3-2』のまとめ。

 

◆Arnoldさん
ご存じの方教えて下さい。

充足、不足の違いが何かわからなくなってきました。

怪我をすることは不足(存在しない)でしょうか?
仮に自傷癖(自分の血を見ることで安心感を感じる)がある方の場合、怪我をすることは充足(存在する)なのでしょうか?

【追加】
@k ery コメントありがとうございました。
疑うことで本当の充足を見出だせるということは、きっと怪我は誰にとっても不足ということですよね。

私は「物事は個人の感じ方によって充足にも不足にもなり得るのではないか」と思っていました。
しかし108さんは「死は存在しない」と断言されていました。
それを聞いてから「もしかして充足・不足の分類は万人にとって絶対的共通のものなのだろうか」と疑問に感じました。
私は考え過ぎかもしれません。

参考元サイト : 今この瞬間を全力で体験する②その2

【108さんのコメント】
怪我することが充足なわけない。
それは不足です。

自傷癖の方でも、血を見ることで安心したとしてもそこで怪我をして血がでているので不足です。
怪我は誰にとっても不足。

>物事は個人の感じ方によって充足にも不足にもなり得るのではないか
これは解釈みたいなことになってくる。
充足と捉えることもできるとか場合によってはそれが充足になったりするとかある。
それは思考で考えていくとわけわからなくなっていく。
単に自分が嬉しい、安いとなった時が本当の充足。

フィーリングに注目して。
そしたらそこを間違わないと思う。
充足は絶対的なもの。
不足もないということも本当のこと。
充足の反対のないものが不足だから、それは誰にとっても共通。
考えすぎるとわけわからなくなってくる。

あんまり考えすぎない事。

>私は考え過ぎかもしれません
思考で定義しようとしないこと。
フィーリングで捉えていって下さい。

 

◆智子さん
108さん、いつもためになる動画ありがとうございます✨
質問があります。
コーヒーやアルコールは波動を下げるということを聞くのですが、本当でしょうか?
108さんのお話を聴いていると、“自分には関係ないと思えば関係ない“ということになりそうなのですが、肉体を持つ以上はそういう影響も受けるのかな、とも思えます。

参考元サイト : 今この瞬間を全力で体験する②その2

【108さんのコメント】
究極的に言えば関係ないです。
ただ、私たちはこの現実世界での不正プログラム内での肉体ということで考えれば、睡眠不足になれば体調がおかしくなったりするし、お酒飲み過ぎれば頭がボーッとして頭がガンガンしたり体調が悪くなると思っているから当然それを再現・表現していってるようなこと。

同じようにお酒飲んでもあんまり酔わない人もいれば、ベロンベロンになる人もいる。
人によって違ってくる。
だからアルコールが絶対的に波動を下げるとも言い切れない。
ほろ酔い気分でいい気分になって振動数が上がっている人もいる。
程度の問題ということも言える。

自分がどうなってるかのほうに注目したほうがいい。
コーヒーやアルコールが絶対的にどうなのかというよりは、今自分はどうか。
気分がいいのか悪いのか、体調がいいのか悪いのかということでアルコールを過剰に摂取したりコーヒーを飲みすぎたりしないと思う。
そうすれば体にそこまで影響が出てこないとなる。
最終的にはアルコールを飲まなっていくかもしれない。
まあ、それはわからないが。

そこはあまりアルコールや―コーヒーに絶対的な概念があるんだというふうに定義しないほうがいい。
自分が楽でいよう、気分良くいよう、健康でいようということを意識すれば多分それに自分に見合った体験をしていくことになる。
そこで適度なアルコールを飲むことになるかもしれないし、飲まないってことになるかもしれないし、それはいろいろだと思う。

コーヒーやアルコールに何かあるわけではない。

 

◆TKXさん
108さんこんにちは。
ここにコメントして良いのか迷いましたが適切性の事で質問です。

適切性を知ってからエゴが出てくるたびに適切性はなんだろうと問いかけていました。
そしたら頭の中がずーっとほわーっとした感覚になってます。(温泉から上がってふわふわとした感覚)
10日くらい経っていますが起きてから寝るまでずっとそんな感じです。
ずーっとほわほわしてるのでイラっとすることも少なくなりました。
というか、イラっとしずらいです。
少しでもエゴが話しかけてきたら「これの適切性はなんだろう」と問いかけるとエゴが消えていきます。
このほわほわは、何かの通過点で放っておけば良いのでしょうか?
それとも、適切性の使い方が間違ってましたか?

もし同じような感覚を体験した方いらっしゃいましたら何か教えていただければ幸いです。

参考元サイト : 今この瞬間を全力で体験する②その2

【108さんのコメント】
別にそれは悪いことではない。
エゴにあまり左右されなくなってきたってことでしょ。

その適切性というのは、自分がこれと決めつけていることから離れることだから今実像のほうに意識がいっている。
ちょっと夢心地みたいな感じかもしれないが悪いことではない。

身体的にとか悪い影響がでてくるならやめたほうがいいが、そんなことになっていないと思う。
通過点というよりは、要は今までエゴでギューッとやっていた緊張があるところから抜けてリラックスしているからそうなってる。
まさに温泉に入ったような状態になってる。
それはいいこと。
何も間違ってないですよ、いいですよそれで^^

 

◆ミル 24さん
いつも動画をありがとうございます。
お金の事で質問させて下さい。
想像し得る所からはお金が入らないのに、予期しない所からは入って来たりします。
お金が入るならどちらでも構わないのですが、何故予期しない方向からだけなのでしょう。
そのせいで、お金の事を考えるのが少し怖くなっています。
(思考すると入って来なくなりそうで…)
宜しければ何かの折にご回答頂けると嬉しいです。
宜しくお願い致します。
これからも動画を楽しみにしております。

参考元サイト : 今この瞬間を全力で体験する②その2

【108さんのコメント】
待ち構えているところからは来ない。
無防備なところから充足は入ってきやすい。
こっちから来い!と言っている時は構えている状態だから逆に遮断するようなことになってしまう。
充足というのは無条件でくるわけだから、こういう条件で来いみたいなことになるとどうしても遮断するようなことになる。
だから遮断していない無防備なほうから入ってくるから、思いもよらないところから入ってきたりする。
メカニズム的にはそういうこと。

充足に対して無防備になってみたらどうか。
こういうふうに入ってこいと思っていることがあるんだとしたら、こうでなくても構わないとすると。
いろんな可能性を考慮してギュッと掴まなくして全体的にリラックスした状態になれば、もっといろんな方向から入ってくるようになる。
緊張してないところから入ってきたじゃなくて、最初から緊張していなければ全方位から入ってきていいわけになる。
そういうふうにゆるめていくことだと思う。

 

◆ミル 24さん
108さん、こんにちは。
適切性に一致するをつぶやき出してから、日常に起こることが最適な状態になっている気がしていました。
ところが、金銭的にとてもショックな通知が届き、完全に落ち込んでしまいました。
これは、この通知(=不足)を疑ってみるべきでしょうか。
それともこれは適切性の一致の一環で、より良い充足へと向かう過程と考えれば良いのでしょうか。
教えて頂ければ嬉しいです。
よろしくお願い致します。

参考元サイト : シリーズ適切性と一致する⑧その2

【108さんのコメント】
それは適切性と一致と関係していないです。
一環とかではない。

>とてもショックな通知が届き
それとは無関係に「ここでの適切性はなんだろう」とすればいい。

それを適切性と一致することでこのネガティブな通知を変えたいとなると、それは乗せることになり適切性でもなんでもなくなる。
そうではなくそれは置いといて、「ここでの自分にとっての完璧なかたちは何かな。それと一致したいな~」と思えば勝手に不足と見えていることが消えていく。

たまたまそれを見たからそれと結びつけているだけ。
そんなもんは消えていい。
過程とかではなく関係ない。

無関係に「ここでの適切性はなんだろう」として。
疑ってもいい。
疑うのもありだが、疑って消そうとしないで。
やるべきことはやって。
通知がきているんだから対処して。
出来る範囲で自分がやるべきことはやったらいいと思う。

一方でそれとは無関係に「ここでの適切性はなんだろうな」とやればいい。

 

◆あ さん
これを勉強だと思ってたら一生わからんな。
すごい簡単なこと言うてるよこの人
1週間くらい経ったけど現実がすごい変わってく割には、なんとも形容し難い感情になる

参考元サイト : 今この瞬間を全力で体験する②その2

【108さんのコメント】
あさん、鋭いですね。
そうなんですよ。
勉強とかではない。
自分の中で知識として蓄えてやっていくというよりは単なる気づき。

再現性のある自分の手腕として身に着けようみたいなことになっていくと間違う可能性がある。
だから勉強ではないというのはその通り。

単なる気づきなので修練とか必要ない。
修練したからこうなったというのはあまりない。
単に向きが変わったとかいうことで充足を体験していってるので、それだけのことですよということ。
メカニズム的には。

 

◆無限の潜在意識活用チャンネルさん
108さん、最近人間関係に恵まれててありがたい環境だったのですが数週間前に入社された方がちょっと非常識すぎて、一緒に仕事するたびにかなりつらくて、こちらまで悪い方に引っ張られそうになり、かなりつらかったのですが

2回目一緒になったときに 108さんのことを思い出して、不足を疑ってみたり、適切性一致していたら、3回目に一緒にお仕事したあとにその方が爽やかな笑顔で 今日で辞めますーと突然言われたので ビックリ🎉
即効性あって、とてもありがたかったですー❣

不足疑ったあとに、すっかり忘れてお仕事に集中してたのがよかったのかな😊
荷をおろすっていう感覚が大事なんだなと思いました😊

参考元サイト : 今この瞬間を全力で体験する②その2

【108さんのコメント】
よくあるパターンのやつですね。
嫌な人が消えるパターン。

そういうかたちで不足は消えたということで。
すっかり忘れて仕事に集中していたのも良かったと思う。
心配しないで荷を下ろすことになっていたと思う。

 

◆あい あいさん
108さん、動画の内容とはちょっと違う話になるかもしれませんが、今こんな気づき?があったので教えてください。
もしかして私は何もしていないのでしょうか?観察者というか、ただ全てが叶う世界の中でそれを見ているだけなのでしょうか?
願望実現のために何もしなくていい…というより「見ているだけで何もできない」というのが正しい??
トンチンカンなことを言っていたらすみません(@_@)

参考元サイト : 今この瞬間を全力で体験する②その2

【108さんのコメント】
究極的に言えばそうですね。
何もしていないっていうこと。
何かしてるように思ってるだけ。
真理の観点で言えばそう。

充足を体験するためには、何かをして獲得するようなことではない。
真理の観点で言えば、実像の中では充足の中にいるだけみたいなことだから何かをした結果こうなったじゃない。
見てるだけみたいなことになる。

ただ、あいあいさんが仰ってることはちょっと違う事かもしれないが。

実際には
>全てが叶う世界の中でそれを見ているだけ
というのが真理。

それも意識してみたらいい。
実際にはそうなのか?と思えば、この現実世界の体験の中でもそれに類したようなことを体験していくことになると思う。

何もできないというよりか、エゴの観点からすれば何もできない、関与するべきことがない。
それは正しい。

難しく感じるかもしれないが、説明すればそういうこと。

 

◆Kaiさん
108さん、いつもありがとうございます。
『適切性と一致する』の感覚がわかるようになり、現実も上手い具合に展開し、結果『良かったなぁ』と思えることが増えてきました。
このまま適切性と一致していれば、充足を見続けることができるんだろうなぁということも、感覚で分かります。

そんな日々の中でもどかしく感じるのは、体の痛みや不調を視覚で体感した時に、幻想とは言え、リアルに痛かったり辛かったりすることです。
そのリアルな体感が、『嫌だな〜辛いな〜もっと悪化したらどうしよう〜早くこの幻想から目覚めたいな〜』と、不安や恐れや絶望感に繋がります。
これが思考にいるってこともわかるのですが。。ついハマってしまいます。

感情や気分→現実ということもわかるので、荷をおろして気分を軽くすれば安心が戻ってくるのですが、またリアルな体感を味わっては不足を感じ。。この辺りを繰り返しています。

段階的に認識の変更も起こってるし、不足を向いても『やめやめ〜!』と思考を止めることも出来るようになってきたので嬉しく思っていますが、一気に充足だけの世界にワープできたら良いのに!と思っています笑

臨場感たっぷりの不足を味わった時(特に体の痛みや、悪化しているような身体症状を知覚してしまった時)でも、そこに引っ張られないメンタルを持つコツがあれば、ぜひアドバイスを頂きたいです。

108さんの言葉やみなさんのコメントから、たくさんの気づきをもらっています。
本当にありがとうございます!

参考元サイト : 今この瞬間を全力で体験する②その2

【108さんのコメント】
痛みとかの最中にいる時は下ろそうとか疑おうとかできないと思う。
それはもうそうなっとくしかない。

ただおそらくkaiさんは完璧な充足、痛みとか全くない本来の状態を意識するあまり、痛みを感じた時に「ダメだ」みたいになってるのではないか。
「ダメだ」としなくていい。
こっから出なきゃみたいになってるかもしれないから、別に痛いとなってもいいんだとすれば1個荷が下りる。
痛いはダメだとなると、痛いを体験した時にあーまた痛いを体験しちゃってるよと背負うことになる。
なんとかせねばとなってしまう。

そうではなくて、あ、痛くてもいいんだとすればそれで気楽になる。
そしたら荷が下りる。
別に痛みを感じてもしかたないんだと思えば荷が下りる。
そういうかたちで楽になっていったほうがいいと思う。

痛みが引いた時とかに「あの痛み本当だったのかな?」とか『この診断書ずっとあると思っていたけど本当なのかな?」とか。
また体験すると思ったけど本当かな?とか疑うことはできると思う。
それは痛みが引いた時にやればいい。

不足を体験していると思った時にこれはダメだ―と言っちゃうと否定することになってしまうし、自分はダメだと言っていることになるのでそれはやめていくこと。
もういいんだ別に、体験しても別に仕方ないんだしとしてその時は痛いとなっておけばいい。

痛くても仕方ないんだと思えば気楽に痛いになると思う。
おかしな言い方だが。
こうやってどんどん気楽にして自分に付加をかけないこと。
余計な負荷をかけないということを意識して「もういいんだ仕方ないんだ」と思う。
なんか自分にプレッシャーかけてるなと思ったらそれを解いていくこと。
「いいんだ」「仕方ない」とかなって気楽になっていけばどんどん楽になっていくので、楽になるということは向きが充足になっていくわけだから体験は充足になりますよってこと。

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