不足を疑う part22のまとめ

108さんの動画『不足を疑う part22』のまとめ。

 

◆クリスチャン ラッセンさん
13:00 疑ってその観点を元に行動してくのでしょうか?例えのチケット購入なら、疑って、あれ?となって、問い合わせたりすると思うので

参考元サイト:不足を疑うpart16その2

【108さんのコメント】
その観点をもとに行動していくということではない。

疑うのは疑うだけで完結している。
『これ本当かな?』と自分の知覚を疑うことになってる。
認識したことは違うのかなってこと。

例えばチケットが手に入っていないということが不足だとして疑って行動していくと『入っていない』が前提になってしまう。
手に入っていないからおかしいから行動するとなると、手に入っていないと認識した現実を元に行動していくことになる。
それは不足が元の行動になってしまう。

そうではなくて『この認識してる知覚がおかしいんじゃないのか?』と疑っているだけ。
もしその知覚が狂っていて、それが修正され正気に戻ったら『チケットが手に入っていなかったことがなかった』『チケットはあった』ということになる。
そうなるともう行動する必要はない。

行動して裏付けていくのではなく『この知覚おかしいんじゃないか』と自分の知覚を疑ってください。
それだけ。

実際に問い合わせてもいいと思う。
実際にチケットはみたいな話だと現実的な行動するだろうけど。
それとは別に『これ本当かな?』と疑えば『あったわ』みたいなことになるかもしれない。

 

◆たるしむさん
そう、変にイメージングすると逆に不足感が増すんです。
不足してるからイメージングしてたんだなって気付きました。
そもそもその不足自体が本当か?って疑ったら別にイメージングしなくてもいいやって気分になり軽くなりました。

参考元サイト:不足を疑う part21

【108さんのコメント】
そうですね。
私はよくイメージングは必要ではないと言っている。

イメージングしなきゃとなってる時は、その不足をイメージングしたことで上書きしようみたいな意識がある。
そもそもその不足がなかったら、イメージングして上書きする必要もない。
イメージングして不足感が増すというのは、その時焦点を結んでいるのは不足のほう。
イメージングしたことでこれ消さなきゃと。
上書きしようということで焦点を結んでいるのは不足。

だからよくイメージングしたり潜在意識的な手法で、より不足が悪化するみたいなことがあると思う。
実際に引き寄せもあると思う。

自分が焦点を結んでいるところがどこかということ。
イメージングして気分が良くなるならすればいい。

いいんだが、今自分が何を感じているか。
感情ナビで今どこに焦点を結んでいるのかわかると思う。
イメージは必須ではない。
自分の気が楽になったり喜びの振動数になることに寄与するならすればいい。
必ずしも必要ではないし、したことで余計に不足に焦点が当たってしまうということならしないほうがいい。

不足自体が本当か?とすると、その前提にあたるから『これ違うのかも』とすればイメージングは必要ではなくなり一番楽ですよねってこと。
気分が楽になることが一番^^
それが一番のポンイト。

充足を体験するために一番必要なのは、振動数がどうなってるか。
気分が楽になっているということは、振動数が充足になるってるからそれがいい。
そこを意識していってください^^

 

◆Y Nさん
偶然かわかんないですけど、私ってゲームフレンドいないなぁ…本当にいないのかな?と疑ってみたら今日、久しぶりにフレンドさんからお誘いがあって嬉しかったです。
こういう小さな充足を偶然ではなくて私が叶えた!と認定することが大事なんですよね?

参考元サイト:不足を疑う part21

【108さんのコメント】
別に自分が叶えたかどうかどうでもいいですね。
自分は叶えた!となりそれで嬉しいなら、そう考えることは自分の充足に寄与すると言える思う。

が、その要は『嬉しかった』が良かったこと。
それが自分の手柄かどうかはどうでもいいこと^^;
そこに別にこだわる必要はないと思う。

『やった!嬉しい♪』となることが大事。
それが何より。
それを自分が叶えたかどうかはどうでもいい。
とにかく充足来たんだ良かった♪となっておけばいいと思う。

 

◆kunioさん
ほとんどの人は、金、物が欲しいはずなんですが疑っても物理的現象がないとエゴも納得しないと思います。
今一度、ここの部分の対処をお聞きしたいです。

参考元サイト:不足を疑う part21

【108さんのコメント】
『お金・物が欲しい』となっている時は『お金・物が無い』となっている。
だから欲しいとなる。

だからエゴが手に入らないと納得できないとなってる。
『いや、ひょっとしてあるのかもしれない』『今無いと思ってるけど本当かな?』と思えば前提が揺らぐ。
そうなれば主張しているエゴも『あれ?違うのかな?』と、手に入れなきゃの前提のところが違ってくる。
手に入ってたらそもそも不満は言わない。

仮に物が欲しいんだったら、まずそれを『欲しい』と表明すればいいと思う。
『お金が欲しいんだよ』『これが欲しいんだよ』ということを表明すれば自分の意図になる可能性がある。
自分がこうしたい、これが欲しいは本心と矛盾していない。
そのうえで『今無いと思っているけど本当かな?』と思えば不足のつかんでいるところを緩めることになると思う。
そこは矛盾しない。

実際にそれで物理的現象として出てきて手に入ったとか、在ったとかなればエゴの不満というのはなくなるから納得する。
エゴが納得するまで待つのではない。
エゴが不満として今思っているところ、それが本当かどうかっていうこと。
そこをまず突いてみるべき。

『根本のところが違うのかもしれないぞ』というふうに疑いをもってやれば『あ、これ勘違いだったかもしれない』みたいなことになる。
そうなれば握っているところが緩むから充足が入ってくる。
お金とか物とか手に入ったとか、もう持っていたとかいうことになるかもしれない。

 

◆リ トさん
いつも配信ありがとうございます。

108さんの配信を視ればみるほど惹き込まれ、ここ数日で全ての動画を視聴してしまいました。

不足を疑うについて質問があります。

1、「この世界には充足しか存在しない」「不足は幻想で、不当な体験」ですが、疑うときに毎回これを前提として使うのはアリですか?
そもそも最初から108さんはそう仰っているのかもしれませんが、、

具体的には、
不足を体験した時に、あれー?これ本当ー?おかしくない? +「だって、この世界には充足しか存在しないんだよ?」

と、やる感じです。このようにあまり強く疑うと、不正プログラムの検閲に引っ掛かりそうな気がして躊躇してしまいます。

2、言葉の使い方についてなのですが、不足を知覚した時に「これ本当か?」や「そんなわけないんだけどなぁ、おかしいなぁ」と疑うかわりに「はい、幻想おつかれ」や、強い不足感には「ないない、だってこれどう考えても充足じゃないじゃん」のほうがやりやすいのですが、アリでしょうか?
これも不正プログラムの検閲に引っかかりそうな気がして躊躇してしまいます。

よろしくお願いいたします!

参考元サイト:不足を疑う part21

【108さんのコメント】
前提として使うのはありだと思う。
が、必ずしも万人がそれに有益化と言ったらそうとも限らないかもしれない。

リトさんはそうすることで自然に疑えるならいいと思う。
目に見えている不足を消すことではない。
充足しかないんだよというのは本当のこと。
真理を自分が理解したり腑に落ちてなくても持ってくるのはあり。
ただそうすることによってその見えている不足を上書きしようという感じになると疑うではなくなってしまう。
そこは注意したほうがいいかもしれない。

本当かなーと疑うことに対して、何か後ろ盾になるんだったらその前提を持ってきてもいいと思う。
強く疑うというよりは自分の疑うことに対して正当性を与えるというか疑うのが正しいんだよとか、そもそも不足があるのがおかしいんだからという感じで疑うことが自然な感じになるんだったらそれでいいと思う。

 

◆miura seiさん
1 か月前
本当かな?と疑う。深く考えないで、自分自身の知覚を疑うってことですね。
自分は忘れてるんじゃないかと思うことだと認識しました。
本当はあるんじゃないかと、思うこと。自分がおかしいんじゃないかと思うこと。そういうことで良いんですよね。

参考元サイト:不足を疑う part2

【108さんのコメント】
そうですそうです。

疑っているのは自分の知覚。
現象とかというよりは、自分が認識しているこの知覚がおかしいんだということ。
そこをまず疑う。
そこだけ。

端的に言うと、結局は現象によってどうこうではなく、自分が正気ではないかもしれないってことw
自分の知覚が狂っているんだったら知覚が消滅すればその不足は消える。
知覚の狂いが見せていた幻覚みたいな話。

『これ幻覚かもしれないな』『自分の知覚おかしいのかな』と疑えば根本のところを疑うことになる。
不足を疑うの目的はまさにそれ。
そうやっていって下さい。

 

◆muさん
自分の感情を疑うんじゃなくて起こった事象を疑うんですね。
嫉妬の感情に対してはどうなんでしょう?あの子のああ言う所良いなぁ…とかの。

参考元サイト:不足を疑う part2

【108さんのコメント】
感情を疑うのではない。
感情は今来てる反応。
それを疑っても仕方ない。
現に今来てる自分の感情だから。

ただ、その感情がなぜ起きてきたのかというと。
この例で言うと、あの子のああいうところいいなあという嫉妬の感情が起きたとする。
自分はあの子みたいないいところがない、自分はそれ持っていない。
だからそれが嫉妬の感情として出てくる。

それがそもそも違うのかもしれないぞということ。
疑うポイントは『自分は、あの子みたいないいところ持っていないと思っているけど本当にそうかな?』というふうに疑う。
嫉妬の感情の根本のところ、その根拠が消失すればもう嫉妬の感情が起きてこない。
嫉妬の感情の元になっているところを疑えばいい。

何らかの条件付けがあるはず。
自分はこうだと思っている、あの子は自分にないあれを持っていると。
それが嫉妬として出てくるわけだから、ひょっとして違うのかと。
自分はそう思っているけど、自分はひょっとして持っているのかと。
あの子と同じいいところ持っているのかな?とか、あの子よりいいところ持ってるのかな?と思えば、それによってこうに違いないと思っている不足を握っているところが緩めば充足が視野に入ってくる。
そういうことを体験することになる。
そしたらもう別に嫉妬する必要なくなったとなるかもしれない。
嫉妬の根拠が失われたみたいなことになる。

感情を疑うのではない。
起こった事象を疑うというよりは、自分が決めつけているところを疑うということ。
それによって知覚している不足を疑う。
要は知覚を疑っていることになる。

だから疑うのは知覚ということ。
自分自身の知覚を疑うということ。

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