コメントへのご回答いまだ6月【ライブ配信】

108さんの動画『コメントへのご回答いまだ6月』のまとめ。
ライブ配信動画。

 

不足は、ジャンクフードのように癖になる感覚がある

◆@omame163さん
最近ふと思ったのが、不足ってないと寂しいというか、つまらない、みたいな感覚になるなぁということです。
なんかジャンクフードみたいな癖になる感じがあるのでは?と自分を見ています。うーむ。

参考元サイト: コメントへのご回答もはや6月

【108さんのコメント】
そうですそうです。
もうジャンクフードというよりも、もう麻薬ですね。
薬物中毒みたいなことなんですよ。

私たちはそれを当たり前だと思ってるので、麻痺してしまっている。
不足は当たり前と思っているから。

それを楽しむというか、禁断症状みたいにそこにあって良かったみたいなね。
あったあった!良かった〜あったわ〜みたいな感じに倒錯している。

本当は必要ないし、何のメリットもないもんだということを自分で念押していかないといけない。
あ、違うんだぞということを。
自分では、もう今倒錯を感じられなくなっているが、本当は倒錯してるんだぞ・・・これおかしいんだぞということを意識していく。

そこはもう体験する必要ないと。
不当なものなんだということを、よくよく自分に言い聞かせていかないといけない。

 

108さんの動画に出会い、ノンデュアリティの違和感から解放され人生が楽になった

◆@8108-m1wさん
108さん、いつも素敵な配信をありがとうございます。
初めてコメントさせていただきます。

2ヶ月前108さんの動画に出会うまでは廃人になる寸前でした。
私は物心ついた頃から何となく生きづらさを感じていたので、若い頃から探求が始まり、スピリチュアルからの非二元、ノンデュアリティ(よくあるパターン)に行き着きました。
ノンデュアリティに出会った時は、「スピリチュアルでは真実に辿り着けない、これが真実かも」と感じ、長い間、そこに留まっていました。
真実かもと思いながらもなんとなく感じていた違和感…それが108さんに出会って「その違和感は正しかったんだ!
私は今まで何をやってたんじゃー」ってなりました!
108さんが以前動画で「ノンデュアリティとは言っている事は似ているけど、着地点が違うと」おっしゃってましたが、正にそうでした。
そう感じた時、これって新興宗教にはまってたのと大して変わらないかもー!と思いちょっとゾッとしてしまいました。(ノンデュアリティを発信されてる方を批判する訳ではなく、あくまで私が望んでいたものとは全く違う着地点だと気付かずに信じていたという意味で)
108さんに出会わなかったら、ほんと廃人になってました。
ノンデュアリティでは、よく、本当の自分の意識を、映画館の主人公ではなく映画の何も写ってないスクリーンや映写機に例えるのがお馴染みで、多くのスピーカーさんがそのように話されています。
ずっとピンとこなかったのですが、そうなんだと思おうしてました。
108さんがかなり前に書いたブログに書かれていたのは「主人公ではなく、観客席にいる観客」と書かれているの読んだ時、なんかフッと楽になったように感じました。
スクリーンだとなんか息苦しさと空虚さを感じたのですが、観客でしたら自由に動けて気楽ですよね♪

108さんに出会えて本当によかったーーー
現実はまだそんなに動いてないのですが、動く予感は感じています。
何かありましたらまた報告させていただきますね。
108さん、本当にありがとうございます
皆さんのコメントもとっても参考になり感謝です♡

参考元サイト: コメントへのご回答もはや6月

【108さんのコメント】
良かったですね^^
このパターン、よくわかります。

そういうところに陥ってしまう。
だからノンデュアリティは違うんだと言っている。
いかにも、悟りでそれが正しいんだみたいなっているが違う。

着地点が違うというのは、充足に着地しないということはおかしいということ。
充足に着地しないものは全部嘘!
もう、そういう形ではっきり見分けがつくと思う。

なんかモヤモヤする、違うなーというんじがするならそれは違いますということ。
真理みたいなところに触れたみたいな感覚を持った時、実際は実像しかないので、良かった!としかならないはず。

そうでない時は、真理でもないし本当のことでもないし嘘だよと思っておけばいい。
本当にそうですから。

辛いとか、息苦しいとかそういうのは全部嘘。
この考えは違うんだなと思ってください。

 

自分の存在や願望についての疑問と、真実の観点からの混乱を感じている

◆@suzum_ist_さん
質問です。
私はどうしてこの世界に生きているのですか?
私の本体は意識なんですよね?
何故、「人間」という形を体験しているのでしょうか。宇宙があり地球があり自然があり社会があり、人や物や現象があって……。
なぜこの形式なのですか?
これも私の向き次第で変わってくることなんですかね?凄く気になっています。
従来の世界観はこういった形が先にあってその中で自分が生きているというものでしたが、真実は「自分が先にある」というものですよね。
実際に何かしらの充足を体験するときは、先述した「形式」の中で体験するはずですし(お金、容姿、人間関係 etc…)、私だけでなく皆さんもそれを求めてこうした情報に辿り着いていると思います。
しかし、そうなると何が正しいのか分かりません。

現在、願望の一つに「頭が良くなりたい」というのがありますが、では何が頭が良いのかという問題にぶつかります。
そしてこれが叶った時の「頭の良い」状態は一体誰がどのような基準で決めたのか。
今自分が理解していないこと・知らない物事が必要になると思いますが、108さんが仰る様な真実の観点からするとそれすらも自作自演ということで合ってますか?だとしたら虚しいですね。
もしかしたらこの願望自体が真実と矛盾しているのかもしれません。

私、もう何も分からないんです。
究極、108さんと回答も私の向きで出現させているわけです。
私がこの情報に辿り着かず人生を終えるパターンもあったと考えると怖いです。
一体いつ何が私を救うのか。

参考元サイト: コメントへのご回答もはや6月

【108さんのコメント】
ちょっと難しめのコメントでしたね・・・。
あのね、考えすぎです。
考えるとこうなっちゃうんですね^^;

何が正しいんだ、何が真実なんだってことで。
これまで自分が認識してきた現実とか、体験と折り合いをつけようとしてしまう。
じゃあこれはどうなんだ、これはどうなんだと。

それは概念と折り合いをつけるみたいなことなので、意味がない。
正しいのは、充足しかない。
体験すべきことはそれだけ。

今、虚しい、怖いとなってるということは、それは嘘なんだということ。
それは思考によって迷宮に入ってしまったみたいなことで、出口がないみたいなことになってしまっている。

それが間違いということ。
そういうのを全部取っ払って。

で、たった今自分が楽になる。
あ、もう関係ないと思い気楽になる。
で、自分がいいな♪と思うことに注目していくこと。

それでしか、本当の実像にはたどり着けない。
実像はすでにあって本当はそこにしかいない。
が、それを知覚できなくなっている。

それを知覚するためには、それが拠り所となる。
それでしかたどり着けなく、知覚できないもの。
思考では絶対にたどり着けない。

それではどんどん実像から離れていく。
中心部からも充足からも実像からも、離れていってしまう。

その思考をやめて自分が楽なこと、楽しいな♪嬉しいな♪心地よいな♪とか、そういうことに意識を向けていって。
それで感じられたフィーリングが良かったな♪となれば、それが実像です。

そしたら、そこで屁理屈とか関係なくなるはず。
あれがどうだ、これがどうだみたいなことも関係なくなり、良かった♪となる。

まさにそれがゴールであり、実像に触れているということ。
ちょっと考え方というか、思考変調になっているのでよくありがちなんだが、一旦そこから離れてもっと気楽になりリラックスして自分が楽しいこととか嬉しいことに意識を向けていくようにし、それを体験するようにして。

身近なことで全然構わない。
身近なことの方がいいと思う。

 

疑うことに対する悪いイメージに気づき、軽い気持ちで疑ってみる

◆@CHIYO333さん
毎回楽しみにしてます。
「不足を疑う」をすると疑うことが上手く疑えてるのかな?と思ったりしていましたが、そもそもの「疑う」 のイメージが「浮気を疑う」とか「詐欺を疑う」などの悪いイメージだったことに気付きました。
なので気分が重くなっていないと疑えていないような気になっていた部分がありました。
軽くどんどん疑っていきます!

参考元サイト: コメントへのご回答もはや6月

【108さんのコメント】
そうそうそうそう^^

浮気を疑うという時は、充足を疑ってる。
例えば、彼氏とか彼女、奥さん旦那さんに対して「浮気してるんじゃないか?」と疑っている時、その浮気がない状態が充足ではないか。

ところが「浮気してるんじゃないか?」と言ったら、それは「これ本当は不足じゃないの?」という形で疑っている。
詐欺に対してもそう。

そうではなく、疑うというのはその不足に対して「本当は充足じゃないの?」と疑う。
実際には充足しかないので、不足が見えてくることはおかしい。
つまり、自分の知覚がそこで狂ってるのではないか?と、自分の知覚に対して疑うを向けていることになる。

不足を疑っているときは、重い。
逆に解放される方向。
不足を認識して掴んでる時は重い。
ぎゅっと深刻になっている。

でも違うのではないか?と思えば、握力は緩む。
そしたらちょっと楽になる。
それがサイン。

重くなるのは違う。
より重くなっている時は、充足を疑っている状態ということ。
不足を見ようとしている状態。

でも不足を認識している時に「違うんじゃないか?」と思えば、充足を意識したことになる。
「この不足は本当じゃないかもしれない」と、まさに真理の観点で見ようとしてるようなこと。

その時は気楽になっているはず。
それが証拠。

 

主へのリクエストと『向き』や『振動数』の関係性についての疑問

◆@user-db3os5pf2sさん
108さん、いつも素晴らしい話を教えてくださり、ありがとうございます。
おこがましいのですが、1点、質問したいことがあります。
「向き」や「振動数」に一致したものを現実で体験すると以前お話されていたと思いますが、「デバック」では「主よ、あなたにのっての最良をお与えください」とリクエストをし、充足を受け取ります。
この主へのリクエストをした場合でも「向き」や「振動数」に一致した現実を体験するのでしょうか?
あるいは、主へのリクエストをすると、自ずと「向き」や「振動数」が充足と一致するということでしょうか?
「向き」や「振動数」と主へのリクエストの関係性を教えていただきたいです。

参考元サイト: コメントへのご回答もはや6月

【108さんのコメント】
この質問たまにいただきます。

向きや振動数というのは、今自分が体験したいことに対するピンポイントのこと。

例えば「コンサートに行きたい」「あのコンサートのチケットを手に入れたい」などという時は、ピンポイント。
このコンサートのチケット手に入れたら自分はどうだろう?「やった!」となる。

「嬉しい!行けるんだ♪」となり、今手に入れてなくてもそれを想像すればその意志、感覚になるではないか。
それを、今頭の中で体験することは可能。

その時は、その振動数になっているからその物理次元にいる。
それが向きと振動数。

で、主へのリクエスト。
「主よ、あなたにのっての最良をお与えください」ということは、何のピンポイントの指定をしていない。

だから、私にとってのではなく「主よ、あなたにのっての」になる。
私にとってのだと、具体的に何なんだということになる。

これを叶えてください、みたいなリクエストの仕方になる。
それと全く違う。
逆にそれを指定せずに、あなたに決めてくださいというふうに丸投げしている。

この時は、向きや振動数は決めようがない。
今これだと言って決めつけているとこを、じゃないところに意識を移すようなこと。

これも言っているが、適切性を意識することとメカニズム的にはほとんど同じ。
アプローチがちょっと違うだけ。
適切性では「主」と言っていないので、もっと汎用性があるので誰でもできると思う。

これはデバッグで書いてある通り、間違った「主」、概念みたいな神の考えから離れるために敢えてこういうリクエストの仕方をしたわけ。

だから「主へのリクエスト」は指定することではない。
指定をやめること。

任せますと、これでしかダメなんだと言っているところから離れて「もうお任せしますから充足を与えてください」ということ。
完璧な充足を与えてくださいということ。

自分が指定しないから無限大になる。
それを与えてくださいということ。

だからそこでは具体性はなくなる。
自分で指定はできないわけだから。
ということ。

だから、主へのリクエストはそういう意味では振動数と向きではない。
そのやり方を放棄しますみたいなこと。

どっちがいいという話ではない。
アプローチが全然違うということ。

 

望むことに対してどのように向きを合わせれば良いのか、具体的な方法が知りたい

◆@user-ig1mz4zu9uさん
108さんの初めのほうの動画を見返しています。
向きの動画が今改めて見てみると腑に落ちつつあります。
太陽の例えがすごくわかりやすい!その向きについて質問なのですが、例えではすごくわかるのですが自分に置き換えてみると、例えば望むことが、お金がたくさんある私であったり、給料が○○円という望みがあったとします。
それに対しての向きはどのようにそれに向いたらいいのかわかりません。
そうなったときの自分を想像して嬉しい気持ちになりその振動数になるというのが向きになるのでしょうか?

参考元サイト: コメントへのご回答もはや6月

【108さんのコメント】
これ、今言ったことですね。
これは非常にピンポイントなこと。

お金がたくさんあるとか、給料がいくらになったみたいな望みがあったら。

じゃあお金がたくさんあったら自分はどう感じているんだろうか?ということを想像してみたらいい。
今、もうあると。
実際、その望むだけのお金が今あるとしたら、自分はどんな感覚なんだろう?
で、給料もその額になったら、自分はどんな感覚なんだろう?と、今意識できる。

その時に「ああ良かった^^嬉しい♪」とかなるんだったら、それがその振動数。
その振動数になっていますということ。

そのために、例えば給料だったら給料明細みたいなのがあるのなら、それをコビーして画像編集ソフトなどで望む給料に作って見てみたらいい。
(自分だけで見るものなので偽造とかではない)
いつも見ているものが、望む額になっていたらリアルに感じられる。

この額になったらこう感じるのか〜と。
それがその振動数。

お金がたくさんもそう。
実際に口座にこれだけあったらどんな感じだろう。

スマホの銀行アプリのスクリーンショットを撮り、それを画像編集ソフトで残高を望む額にする。
ザ・シークレットでチキンスープの人がやっていたようなこと。
通帳を望む額に書き変えたと。

実際にやってはダメだが、今ならアプリで画像編集しての望む額の残高にすることができる。
それを画像として持っておけばいい。

それをたまに、実際に銀行アプリを見ているような感じでパッと見る。
あ、こういう感覚なのかとわかる。
それがその振動数。

その時、絶対に「あ、いいな♪」となっているはず。
その振動数になっておけば、それを体験する。
なぜならば、体験は振動数と向きだけで決まるから。

 

行動を先延ばしにしてしまう不安や恐怖にどう対処すれば良いか知りたい

◆@userkiraraさん
いつも元気をいただいています。
行動を先延ばしにしていることに対してはどう考えるいいのでしょうか。
鬱病になったため(回復しました)相手方に延期していただいているのですが、待っていただいてる思うと早くしなければいけないのに行動に移せていません。
怖い気持ちや不安と向き合っているつもりですが出来ていないのでしょうか。

参考元サイト: 不足を疑う part21

【108さんのコメント】
「早くしなければいけない」と、今、自分に対して強制している感じ。
これしなきゃいけないんだと、でもできていないじゃないかと。

それは不足だし、荷になっている。
その荷を下ろせばいい。

具体的に何がと書かれていないのでわからないが、うつ病になり今治ってるけど延期をした、相手を待たせてる。
それをどうするか。

1つは具体的に考えていけばいい。
もう少し伸ばしたいなら、もう少し伸ばしてくださいと申し出るとか。
すいません、まだちょっとそういう踏ん切りつかないのでと、正直に言えばいいと思う。

また、待たせててずっと何も言っていないのがちょっと重荷になっているなら言うことで荷は下りますよね。
相手がどう批判するよりも、自分が言えたことで荷が下りると思う。

別に、もう待たせてもいいや、だって仕方ないよと諦めるとかしても荷が下りる。
今、重荷になっていることを下ろすこと。

怖い気持ちがあることは、それは絶対に荷。
荷とは思考。
あー相手がーとか、怒ってるんじゃないかーとか、イライラしてるんじゃないかとかは思考。
自分の頭の中で考えてるだけのこと。

実際の実情と何も一致していない。
一致していないかもしれないし、想像してるだけ。

思考だから、違うかもしれないぞと思えばちょっと楽になるかもしれない。
じゃあ気楽になったからちょっと聞いてみようかなとか、言ってみようかなとかなるかもしれない。

そうやってちょっとずつ荷を下ろしていくこと。
近々それを行動しないと殺されるとかじゃないでしょ?w
絶対にそんなわけない。

だったら別に伸ばしてもいい。
伸ばせるだけ。
そこまで切迫してないと言うこと。

そう考えたらちょっと楽になる。
あ、別に1日2日伸びたっていいのか。
1週間伸びたって関係ないのか。
別にそこまで重大ではないのか、と思えば気が楽になる。

気が楽になれば、自分の中で意欲みたいなものも出てくる。
そしたらちょっとコンタクト取ってみようかなとなるかもしれない。

それはわからないが、今の自分の荷をまず下ろしていくこと。

 

現状や結果にとらわれず、自分の考えを疑うことで気持ちが軽くなり、解放されることがゴールである

◆@JM-kd2tmさん
疑うができな〜いってなる時って現状とか期待している結果と密着しているときですよね
わたしがふと「不足を疑う」ができたなって思う瞬間は、「家とかマンション買うのに、貯金がないから無理って思ったけど本当か?」貯金なんて必要ないんじゃないか?(笑)って思った時とか、その瞬間、自分が今まで思っていたことを疑ったときです現状とか結果とか関係なく
そしたら貯金なんてなくても何でも買えるんじゃないか、貯金もできるんじゃないか(笑)とか、そもそも貯金あるんじゃないか(笑)とか言って、実際に家買うとか貯金のあるなし関係なく、そうやって考えたとき、こういった考えは自然に浮き上がってきましたが、気持ちが軽くなるんですよね。だから、それで終わりなんです
結果で言えば、自分の考えから解放されたわけですし、ある意味それがゴールですよね

参考元サイト:コメントへのご回答Ⅴ

【108さんのコメント】
そうですそうです。
気持ちは軽くなったわけだから、まさにそれが正解だったということ。

それまでは無理なんじゃないの?と言うことで荷になってた(思考なんだが)。
それが違うかもしれないということで、その思考が解除されたわけで荷が下りて気が楽になった。

これは不足なんだ、理由はこれで、これが解消されない限り充足は体験できないんだと決めつけて、どんどん充足を遮断していってる。
自分で条件をつけて勝手に。

それは思考だけのこと。
頭の中で考えているだけのことだから関係ない。
そうやって、実際は何の現状も変わっていないのに気が楽になったと。

まさに思考によって自分を抑圧して荷にしていただけ。
それが解除されたから楽になった。

すごいシンプルなこと。
それがゴールだと思えば、ずっとそこにいられる。
また手放して荷を下ろしてをすれば。

どんどん振動数が充足になれば体験が充足になってくる。
そうすれば、家が手に入ったと言うことになるかもしれない。

 

 

チャット欄より

◆さささん
​​近頃は不足を感じた時に(あ、まあこれも勘違いかぁ〜知覚が違うんだろな〜)と思えるようになりました。気持ちが落ち着くと知覚も変わったり、不思議ですね。

【108さんのコメント】
そうそう、その通りですね^^
だから気が楽になることが最優先。

 

◆ふとあごヒロシ日記さん
​​質問です!108さんは「いいな〜ってなってればいいんです」とおっしゃいますが、それって言い方によってニュアンスが変わってくると思うんです。嫉妬心での「いいな〜」なら、その奥には羨ましいという気持ちがありますよね。でも108さんのおっしゃる「いいな〜」って、それではないですよね?私は嫉妬心が強い部分があるので、つい羨ましいという気持ちでいいな〜と思ってしまいます。いいな〜のコツを教えてください。

【108さんのコメント】
嫉妬心であるということは、嫉妬する対象がいる。
だからそれを考慮しないこと。

何かや誰かに対していいな〜となるのは嫉妬心で羨望みたいなこと。

例えば、自分がダイエットしたとして望む体型になりたいという時に、これは実際に効果があり報告もいっぱいあるんだが。
望む体型のモデルの人の写真を入れたりして、時々眺める。

それを見た時に、自分の理想の体型だからいいな〜♪素敵と、なるじゃないか。
その時のいいな〜♪は素敵でしょ。

この人はこんなにいい体型なのに、私はダメだわとかあまりならない。
なってる時は、自分と比較して自分にダメ出しをしている。

そうではなくて、自分がもしこうだったらってことを意識してみたらいい。
もし自分がこの体型だったらどうだろうと思ったら、いいな〜♪となる。
それがもうその振動数。

別にそれが自分の写真じゃなくても、いいな〜♪となっている時はその振動数になってるからそれを体験します。
実際にそうやってその体験になりましたという報告もあった。

あの人に比べて私は・・・と捉えるのではなく、私こうなのかな?こうなのか?と思えばいいな♪となる。
そこから相手とかを取り除いて、自分の理想ということで。

物とかならやりやすいと思う。
これ手に入れたい!と思ったら、その写真をみたらいいな♪となる。

それを誰か知らない人が手に入れてると、あまりいいな♪とできない。
物だけ見ればいい。

そういうふうに捉える。
誰かに比べて私は・・・という捉え方をせずに、私がこうだったら、これを手に入れたら、この状態だったらという観点で見ること。

 

◆kochikameさん
​​108さんこんばんは。「疑う」のは「そんな訳が無い!「ありえない!」と強く疑うのはよくないのでしょうか。強い不足感を感じると感情を込めないとその不足感に負けてしまいそうになるので強く疑うのですがそれはその不足を現実として強く認めているようで確信のないまま疑ってしまいます。

【108さんのコメント】
これは疑うではない。
ただあり得ない!と言って断定するみたいなのは、別の意味では効果があるかもしれない。

違う!と言って、その不足を受け取らない!みたいな感じ。
不足を、仕方ないな・・・と受け取るよりは、違う!と言っているほうが振動数的にはいい。

私の言っている疑うは、ちょっと待ってその根拠になってるこの不足の現実というのはひょっとして違うのか?
自分の知覚が狂って見えている幻覚であって、本当は無いのか?これ・・・という疑い方。

その根本のところを疑っている。
だからそれもありっちゃあありだが、私の提唱している不足を疑うとは違います。

 

◆happiness happinessさん
​​質問です。何かを得たい時に、過程が充足を感じる時(楽しい、面白い)と、苦しみを感じる時(辛い、つまらない、やりたく無い)、二つの過程がある時、この苦しいと感じる時の先には、充足は無く、苦しみがまた現実化する形になりますか?やはり、楽しい、面白い過程のを方を選択するのが良いでしょうか?

【108さんのコメント】
二つの過程がある時ですか。

苦しみを感じるプロセスに関しては、その時点で苦しい、嫌だとなってるのだからあんまりいいことはない。
それはそうなる。

不足の振動数になってるのだから、体験は不足になってしまう。
だからそっちは選ばないこと。

面白い過程の方が絶対にいいです。
そっちを選んでください。

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  1. 名無し

    書き起こし有難うございます。

    重荷になっているなら言うことは〇〇におこる(〇〇が聞き取れない)
    →重荷になっているなら言うことで荷は下りますよね

    と聞き取れます

    • あんこ

      名無し様

      オオォォォ(゚ロ゚*)スゴイ
      助かります!!

      早速修正させていただきました^^

      ありがとうございました( ´ᵕ`* )‪‪❤︎