【動画まとめ】DEBUGシリーズ

108さんの動画『DEBUG』のまとめ。
【 1. DEBUG① 何故「主」なのか? 】
→動画DEBUG①何故「主」なのか?
3.11に未曾有の東北大震災が起きた。あれがなかったらたぶんDEBUGを書いていない。あれがなかったらひょっとしたらDEBUG以降の著作はなかったかもしれない。
書かなきゃと思った。チケットに比べたらかなり雰囲気が変わったと思う。
まずチケットが「です」「ます」調だったのが、DEBUBは「何々だ」という断定口調になった。内容も思いつめる書き方をしている。わざと意図的に。
ていうのは、あの東北大震災があってみんながものすごいネガティブになっているところに、チケットみたいな内容と物言いのことを書いても響かない。向きが不足の方に向いてるときには、その不足のほうのスタンスの方向からアプローチしたほうが絶対に受け入れられやすい、響きやすい。向きが一緒だから。
だからDEBUGは不正プログラムというのが出てきて、そこでバグがあると。それが不足を体験させているものなんだ。それは絶対に消せないよということが繰り返し延々と書かれている。嫌になるくらい。
こうすりゃいいのか・・・でもダメですよ。そんな甘くないダメですよ。序盤はずっとそう書かれている。うんざりするくらい。
じゃあ無理なの?って言ったら無理じゃないよってことでそっからDEBUGっていう作業をすれば無効にできる。正常なプログラムに戻れるんだと。DEBUGで怖くなったっていう感想をすごいいただいた。もう術中にはまってますね笑。そういう書き方をしたんです。
主よあなたにとっての最良をお与えください。「主よ」ってDEBUGまで言ってこなかった。「主」っていう言い方。これわりとキリスト教圏の方はわりと馴染みのある文言であり概念。
自分に対して「主」という。「主」って日本人はあんまりない。日本は神道とかなので神様とか言うけど。主ってあんまり言わない。「主」ってなんぞやって話。「主」とはあるじ、本体。主に対して従。「主」って言っちゃうと自分は従になってしまう。
従属するもの、主がいてそれに仕えるものみたいな感じの印象になる。これ結構キリスト教圏に比べたら、日本人はすぐに受け入れがたい考え方・概念だと思う。だからわざと主と使った。
神って言っちゃうと、それまでの概念・観念とかがどうしても入ってくる。「主」って言うと「主って?」となる。「主ってなんだよ」っていうショックも必要というか、与えたいと思った。
【 2. あなたにとっての最良を 】
→動画 DEBUG②あなたにとっての最良を
「主よ」は新鮮だったと思う。これどう捉えたらいいんだろう?みたいになるので、そこが狙いだった。主よあなたにとっての「あなたにとっての」は自分じゃないのかよって話。本来だったら、願望というのは私のこの願いを叶えて下さいとか。自分にとってこうなったらいいなとか、こうあってほしいとか、これ絶対に手に入れたいとか、実現したいってことを主に祈る。
そこで主(神)は叶える以外の権限・選択肢がない。これを叶えろって言ってるわけ。これこれを叶えてくれ。神がそれを取捨選択する立場にないようなことになっている。
例えばこれこれの車が欲しい・・・、神様この車を与えて下さい。いや、お前にはこの車じゃなくこっちのほうが適当だぞ、ということを許さない祈り方。で、違う車が来たら怒る。なんだよこれ・・・俺こっちが欲しいって言ったのにこれなんか欲しくないよってなる。神に対して(`Д´) ムキー!と。
この主のリクエストというのは、「主よあなたにとっての」が重要。「あなたにとっての最良をお与えください」と。まず自分じゃない。「あなたにとっての」今まで考慮してこなかった「主にとっての」と「主」に丸投げ。
あなたにとっての最良・あなたにとって一番と思う事・ベストを私に与えて下さい。これこれをと言っていない。ここが重要で、主よ、これこれの車をお与えくださいだったら同じ。主よあなたにとっての最良は、何の具体性もない。
【 3. 知覚不全の正体 】
→動画 DEBUG③知覚不全の正体
誰しも自分が見てこうだと思ったことを事実とする。そうやって生きてきている。それを「いや違うしそんなの意味ねーよ」と言われたら「じゃあどうしたらいいの?」ってなりません?結構怖いこと。で、主へのリクエストも同じようなところにある。要は自分が決めつけていることを放棄して丸投げしてみろ、委ねてみろってこと。
当然怖い。自分・エゴからしたらそんなんできるわけないよって話。じゃあその為に生きているのにそれをやめろってそんなバカなって話。実は敢てそうしないとパーフェクトな充足からもたらされる幸せ・喜びを体験するのは困難ですよって話。
どうしても歪んだ知覚で解釈すると、完全性を受け入れられなくなっちゃう。例えば太陽の光を浴びている時に、全方位に当たっている。ピンポイントではこない。(体の一部にピンポイントに当たって)アツッとかにはならない。際限・制限なく満ち満ちた光が溢れているが、それをピンポイントに当ててくれよとエゴ(自分)は言う。他の光はいいよ(いらない)、ここだけみたいな。これだけ体験したいんだよ。あとはいらねって。
知覚が制限されているから、歪められたエゴの知覚ではそれだけのもの(ピンポイントの光)が充足だと思えてしまう。ピンポイントにさえ光が当たればいいと。それだけ欲しくて、あとはどうでもいいみたいな感じの取り方になってしまう。
太陽に、ピンポイントに焦点を絞って当てる機能はない。燦燦と降り注ぐ中に、ピンポイントに当てるも含まれている。別にここだけ焦点・ピンポイントにしなくても他に全部当たっている。全部に当たっているならいいじゃんという話だが、それを許せない。歪んだ知覚では燦燦と当たっているのに、当たってないと誤認してしまっている。
セミナーの話を抜粋しているようなので、途中で終わっている印象を受けるが、必要な部分だけを切り取っているんだと思われる。
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