コメントへのご回答 5

108さんの動画『コメントへのご回答 5』のまとめ。

 

 

思考に囚われず今この瞬間を意識して経験することで、より多くのことに気づきリラックスできる

◆まっるさん
思考とか焦りに注目が行ってると、今起きてる事に意識が全然向いてない。
思考に構うよりも、今、道を歩いてるなら、外の景色を積極的に見てみる(経験する)方が圧倒的に不快感が少ないわけだから、楽な方を選びたい。

これがフィーリングとして自分が分かるようになったのは、やっぱり気楽になってよう、とし続けたから。リラックスしていると今、起きていることが自然にたくさん経験されていくと思うんよねぇ。

今、遠くの木に鳥が止まっていることに気づいたけど、もし、焦ってあれどうしよう~とか、頭の中のおしゃべりに夢中だと、気づきにくい。詰まる所、頭の中の思考に心奪われていると、今のこの状況で得られる体験のほとんどを無視するという事になるね。いま、なにも経験していないって事になる。文字通りせっかくの体験を逃すことになる。

あるかないか分かんないような消えては浮かぶ思考の相手してると、道の向こう側にいた友達を見逃すじゃん?

参考元サイト:シリーズ適切性と一致する④その3

【108さんのコメント】
もうその通りですね。
おっしゃる通り。

私たちは思考に意識がいくと、今目の前にあることから意識が取り除かれて体験できなくなっていく。
体験してる気になっているのは、思考の中でのバーチャルな幻想。
そうするとその現実、実際にある充足っていうのをどんどん見逃すことになる。

だからその思考っていうのは一旦置いといて。
思考から離れて、今この瞬間にとどまる。
つまり目の前の現実、それに意識を投入していく。

小さい子供とかそうだと思う。
私たちはもういろんな経験を踏んでる。
バッと見て「あ、これはあれだ」というふうに判別し、仕分けするようなことをやってる。
が、小さい子供というのは全部が新規の体験。
だからもう全部の体験に対して、意識を全力で投入するようなことになってる。

子供の時って時間すごく長く感じたと思う。
あれはその全部にものすごく意識を投入して、すべてを細かく存分に体験しているからそういうふうに感じる。
私たちは類似の体験をいっぱいしてきてるから、何か体験する時もアレと似たアレだみたいな感じで仕分けして早送りしてしまう。
完全に味わわずに「あ、アレね」という感じで記号化し、早送りをして「わかったわかった」という感じで飛ばしていってる。

大人になると時間がすごく早く過ぎる感じがするのはそれ。
さっきも「2月です。早いですね」って言ったがそれもそういうこと。
結局は、私たちは現実に対して意識をあんまり投入してない。
バーチャルな思考の中で体験した気になってるだけ。

ではなくて、実際今ここに留まって目の前の体験を存分にする。
そこに意識を全部投入しようというふうにすれば、そこにはいっぱい充足がある。
それを体験できることになり、それを知覚するようなことになる。
それが正しい。
だから思考が本当にあることじゃない。
本当にあることは目の前のこと。

実際には物理現実は幻想。
そこに意識を投入することになれば、思考にはいないことになる。
そうなれば、実像の片鱗をそこに発見していくようなことになる。
だから、今ここに留まる。
目の前がどんな状況だとしても、そこに意識を注ぐというのは有益なこと。

だからそういうふうにしていって下さい。

 

108さんの動画を試した結果、家族の状況が改善し自分も今に集中することの大切さを学んだ

◆のこのこのさん
はじめまして。いつも楽しみにしています。
昨年たまたま108さんの動画をみつけて失礼ながら半信半疑で試してみたところ、不登校だった娘が楽しく登校できるようになり、入院先の病院から終の住処になるだろうと言われた父がみるみる元気になり、退院にむけてのリハビリが始まりました!
正直最初は良く理解できなかったので、家事をする間などに何度も動画を聞き流していました。
とはいえ、向きを変えればいいは向きを変えるしかないのでじゃあそうしようと思い向きを変えました笑
不足を疑うのも疑うしかないのでとりあえず疑いました笑
適切性は現場対応につかわせてもらいました。
その都度何かしら結果が出るので楽しめるようにもなったり。
私はもともと占いや潜在意識書き換えなんかも好きだったので、並行していました。
アレもこれも手を出すのはどうかと思いましが、ランチ代位のものだし、108さんに至ってはタダなので😅
それに、施術を依頼するときは丸投げするつもりでお願いするので、一時でも気楽になれました。
今でもまだまだ不安が頭をもたげる時もあるので、今に集中するのがうまく出来るようになりたいです。
長くなってすみません。
いつも皆さんのコメントで希望をもらっていたので私の体験もシェアしたくて書かせていただきました。
どんな質問にも時に熱く時に優しく丁寧に応える108さんが大好きです😊
愛川メゾットを語る時に妙に嬉しそうな108さんも好きです。
これからも動画を楽しみにしています。ありがとうございました!

参考元サイト:不足を疑う part21

【108さんのコメント】
そうですね。
あー良かったですね。

>一時でも気楽になれました
→その気楽になったことがポイントだったと思う。
よくありますよね。
不登校だった子供が登校するようになったってわりと聞く。
自分のことじゃないのにそうなると。

自分がそうやって乗せてるのを下ろせば、それによって問題が解決する。
乗せることによって問題となってるわけだから。
これなんとかせねばとなってるが、知らないよ気楽になれば、自分でもう背負わなくなる。
問題を不足として知覚するようなことがなくなるということは問題が消えるということ。

素晴らしいですね^^

 

108さんの騒音問題について。騒音も不足と見なせば存在しないことになるのか?

◆おーじろうさん
初めてコメントします。
いつもありがとうございます!
108さんのお話はいつも全て腑におちてほとんど聞かせていただいてますが、1つだけ疑問に思うことがあって質問させてください。
108さんご自身の体験の騒音問題、騒音を疑ったら消えるというふうにはならなかったのでしょうか?
自分にとって嫌なことが不足であれば騒音も不足であってそもそも騒音自体ないってことにはならないのでしょうか?

参考元サイト:不足を疑う part21

【108さんのコメント】
騒音問題っていうのがね。
これご存じない方にはちょっと簡単に説明しますと、もう何十年も前。
私がもっとずっと若い時。
要は騒音問題に悩んでた。

隣とか上とか下とかがうるさいと。
で、引っ越したんだが引っ越す度に騒音が倍加していった。

つまりどんどんうるさく酷くなっていった。
もう酷かった。
引っ越してるわけだから住んでる所変わっていくんだが、変わっても必ずまた騒音に遭遇して酷いことに。

最終的にはどうなったかというと、もう新築のマンション借りた。
それはもう建つ前に借りた。
端部屋で一番上の部屋で最上階。
で、もう大丈夫と住んだ。

最初は騒音なかった。
自分しか入ってなかったから。
もう最初に建つ前から予約し、建つかどうかで(他の人)入ってこないんで。
私しか最初入ってなかった。

ところが、しばらくしたら住人が入居しだした。
私の隣に入ってきた人は、これ本当に嘘みたいな話なんだけども。

深夜の12時です。
12時に、エレキギターを大音量でビャーーーンって弾きだしたんですよwww
う、嘘だろ・・・と思いましたけどね^^;
もうそんな酷くなった。

どんどん引っ越せば引っ越すほど騒音がひどくなっていった。
そういうことがあった。
で、それはまあ消えた。

>疑ったら消えるというふうにはならなかったのでしょうか?
→それはもう108になる全然遥か昔だから。
何十年も前の時なんで、疑うというかそういうメソッドもなかった時。
普通の私でしたんで。

それはどうやって消そうと思ったんじゃなくて。
また違うところに引っ越しても結局騒音は消えなかった。
たまたまなんだが、その時に自分にとって趣味みたいなものが見つかった。
たまたまなんだが。

それに没頭することになった。
そしたら今まで頭の中が騒音のことでいっぱいだったのが、その趣味が楽しくてもう騒音のこと忘れていた。
要はそこにもう意識を注ぐ余裕、余地がなくなった。
全部趣味の方にいっちゃった。

それまではもう騒音騒音と言ってそこにめちゃくちゃ集中してた。
なんとかこれ消せないかと実際の行動としてもやっていたが消えなかった。
消えるどころかどんどん酷くなっていったんですよ、引っ越せば引っ越すほど。

で、あるときたまたまその自分の趣味を見つけた。
意図したわけじゃなくてたまたまそうなった。
そっちに全エネルギーというか、全意識を投入するようなことに勝手になった。
そしたらいつのまにか気が付いたら騒音消えてたんです。

別に何をしたわけでもなく、単に騒音のことを忘れてただけ。
趣味に全力で没頭して、謳歌して、あるとき気が付いたら「あ、騒音そういやなくなってるな」と思った。
そっから私はもう一回も騒音問題に遭遇してないです、何十年。

構造としては、それまでは騒音ということで私は騒音を消そうとしながら騒音にめちゃくちゃ意識を集中してた。
つまり、『騒音のある方の向き』で騒音を体験する振動数になってた。
それをどんどん強化していったようなことが、趣味に没頭することで外れた。
趣味の振動数になり「それが楽しい♪」になったわけ。

だからその荷も降りたし、自分の振動数が充足になった。
で騒音に対して意識も忘れてたぐらい。
触らなくなったんです。

そしたら、もう私の意識から消えたから騒音が消えていったっていうこと。
そういう顛末でした。

だから結構これと似たような体験で思い当たる節が、皆さんも思い出したら必ずあると思う。
この問題と言って抱えている時は、問題は消えない。

もっとどんどん悪化していったりする。
もういいや知らないと諦めたり、手に負えないから考えない、意識から取り除いたというか除外したような時は、いつのまにかその問題が消えてたみたいなことになる。

だから私たちは、背負うことで問題を成立させてるというかね。
あることにしちゃってる。

実際にはないので、背負わなくなれば騒音を知覚することはなくなる。
で、よく私騒音問題を引き合いに出すんだが。

今問題抱えている人がいらっしゃったら、この問題…というのではなく。
問題ではないもの、自分がもう楽しい♪となる、意識をそこに喜んで投入できることを見つける。

そうすれば勝手にそっちに意識を全力で投入するようになり、問題には意識投入できなくなる。
意識がそこに割けなくなる。
そしたら自分の振動数は充足になるし、問題に意識も注がなくなるから結果的に問題は消えるということになる。

だから消そうとしてる時、問題はより輪郭が明確になってはっきりしてくる。
そうでくなくて、ぼやかしていくっていうのが意識を取り除いていくこと。
自分が楽しい、嬉しいという、その問題とは全く別の楽しいことの方に意識を向ける。

それはまさに向きの話でもある。
暗い悲しい方から、明るい楽しい方に向きを向けばそれを体験するっていうそれだけのこと。
もう単純な原理。

もし問題があって消えないよとなってる人は、諦めたり、自分が楽しいことに没頭することで、その問題から意識を取り除いていって。
そうすれば問題は速やかに消えていくと思います。

 

病院での検査費用を疑った結果、公費扱いとなり支払わずに済んだ。決めつけずに疑うことの大切さを実感した

◆Sa Kaさん
いつも楽しませて頂いています。
「不足を疑う」は面白くて本当に大好きです!

昨日、病院に4千円かかる検査を受けに行った時待合室でフト「4千円かかるってホント?払わなくていいんでは?」って疑問を持ってみたんです。
勿論、エゴは「いやいや流石にそれはw決まってるんだからww」と騒いでいましたが、その後診察の流れで公費扱いになるとの事でナント本当に1円も払わなくて済みました!!

自分の中でこれは決定事項でしょ!と決めつけてる不足案件に、ひとまず疑いのメスを入れてみるのは頭も柔らかくなるようで楽しいです。

参考元サイト:不足を疑う part21

【108さんのコメント】
そうですね。

>払わなくていいんでは?って疑問を持ってみた
→ことで、4千円払わなきゃと思ってるところの握ってるところが緩んだ。
そしたらもう辻褄合う形で公費扱いになり本当に払わなくて良くなったと。
実際皆さんもこういうことあると思う。

疑うことで緩めば、消そうとかいうんじゃなくて本当に純粋に疑う。
シンプルに払わなくちゃいけないのかな?とか、この不足本当にあるのかな?という形でシンプルに本当に疑いを持つ。
私たちが何かを本当に疑う時「本当かな」と思うような感じで消そうとしないで疑えば、そういった形で消えていったりすることは本当によくあると思う。
いっぱい報告あるし。
そういう形で活用していってみてくださいね^^

 

不足を疑うことを試しているが、信じるのが難しくうまくいっている人はどうしているのか知りたい

◆くいなさん
いつもありがとうございます。
不足を疑う、いつもためしていますがどうにもうまく行きません。
そういう気持ちさえ疑えばいいのでしょうが、例えば「お金がないってほんと?」「うまくいかないってほんと?」と考えても、ただ唱えているだけで、疑う気持ちがまったく湧いてきません。
不足は全部疑えばいいのはわかります、うまくいかないことを疑えばいいこともわかります。
でもこれまで不足を信じ続けてきた自分としては、じゃあ疑えばいいとすぐに切り替えるのはなかなか難しいです。
うまくいっている方はどのように疑う気持ちが湧いてきているのでしょう。
それとも、初めはただ唱えていただけだけどいつのまにかそれがほんとうになってくるのでしょうか。

参考元サイト:不足を疑う part21

【108さんのコメント】
不足を疑うに関連したご質問。
この二つを比較してみたら分かると思う。

Sa Kaさんは普通に気楽に疑ってると思う。
疑わなきゃいけないというより本当かなあ?と素朴な疑問を持っただけ。

お金はわりと生活にかかわってくる深刻なことだったりするから、真剣になってしまう。
そうなるとなかなか気楽に疑うってできないと思う。

お金の不足を消すために・・・みたいなことになるとそれは乗せるようなことになる。
疑うでもなんでもなくなってしまう。

消したいから消したーいと主張してるだけみたいな感じで。
疑ったふりをするみたいなことになってしまったから、唱えてるだけみたいな感じになってしまったと思う。

だから前置きしたらいいと思う。
『今から疑うけどこれによってお金、不足は消滅したりしないよ』と。
『不足消えるわけじゃないけど、本当におかしいから疑うんだ』と。
・本当にそうなのか?
・私の知覚これ正しいのか?
・今不足を知覚してるけども
と。

そういう形で疑ってみたらいいと思う。
そこに深刻さを乗せないということ。

お金がないと困っているなら『お金が欲しい』の方がいいと思う。
不足を疑うというよりまず『お金が欲しい』と宣言したらいい。
『お金が欲しいんだよ』と言えばそれは意図になる可能性がある。

要は決定・決意するみたいなこと。

そこに嘘つくようなことになる。
欲しいのに、お金は本当はあるのかもしれないみたいになると、自分のお金が欲しいという純粋な本心を覆い隠すようなことになる。

そうではなく、お金が欲しいんだったらお金が欲しい!と言っていいと思う。
だって今不足してると思ってるわけだから。
もっと欲しい、あってほしいんだよと思っていい。

まずそれを認めてあげること。

その上で、お金が足りないと思ってるけど本当かな?と思う。
欲しいと主張したうえでやればもっと気楽に疑えると思う。
それが、今抑圧してるような感じになってるんじゃないか。

だからまずお金が欲しいと言ってみて。
こんだけ欲しいんだよと主張して。
その上で、今お金が不足してると思ってるけど本当かな?と思えばちょっと感覚違ってくるかもしれない。

ちょっとやってみて下さい。

 

見えているものや記憶は必ずしも信頼できない

◆まっるさん
ワシの親族が久しぶりに会ったらかなり小柄だったのに平均身長になってたんよね。

25センチくらい伸びてたと思う。
前は頭1個ぶんは低かったのに。
それで、久しぶりに会ったといっても1年に1回くらいは会ってたし、当時すでにその親族は30歳は過ぎてたし、成長ホルモン療法などはしてないし、何より背が高くなって欲しいって誰も思ってない。
ワシも思ったことなかった。
なのにある日、ワシとほとんど身長変わらないくらいの姿になってた。
だけど全く驚かなかった。
本人も「なんか背が伸びたんよね~」と呑気なこと言ってたし、ワシもそうか~と思っただけ。
違和感なく即刻受け入れてた。

ここから言えることは本当に今見えてるものの姿なんか当てにならない、親族が身長が低かったという記憶も当てにならない、という事です。

参考元サイト:不足を疑う part21

【108さんのコメント】
そうですね。
これすごいですね。

そうなんですよ。
だからもう実際に、25センチって相当ですけど記憶はあるわけですよね。

もっと低かったはずだっていうのがあるが、久しぶりに会ったら自分と同じぐらいになって25センチ伸びてた。
どう考えたって常識で考えたらおかしいが。

でももう目の前にその親族が現れたら認めるしかないw
だってそうなってんだから。
嘘だと言っても、だって実際にいるんだしw

だからそういうこと。
私たちは頭の中でそんなことあるわけないと言うが、現実にそれ突きつけられたらもう認めざるを得ないw
辻褄なんか後で勝手に合うし、まっるさんもいやいやおかしいから絶対調べるぞとやってない。

調べても仕方ないし。
だって、その高さもうなってんだからってw
だからもうそれでいい。

必要なことは自分が望む状態に一致してそれを体験すれば、身長25センチも高くなったりするわけ。
なる前は、もしそんなになっちゃったら色々不都合が起きるんじゃないかとか、みんな驚くんじゃないのか、何か変に思われるんじゃないか、不審に思われるとかいろんなこと思う。
ところがそうなってない。

だから実際にはならない。
辻褄が合ってちゃんと受け入れられるよってこと。

恐れずに、自分の望むことをどんどんリクエストして、それと一致すればいい。
そしたら、調和した状態でその自分として存在できるようになる。

素晴らしいですね。
びっくりですけどもw
良かったですね。

 

私は既に願望実現できる自分であり、小さな充足を見つけることでそれに気づいた

◆いきなりだんごさん
108さん、いつもありがとうございます🙇
突然、「私、なんでも実現できる私やんけ?!」と思いました!
ずーっと認識の変更やその他モロモロを願望実現出来る自分になるためにしてました。
でもふと、「あれ?ここがゴールなら私は既に願望実現できる自分なんじゃん?」と思いました。
そう思い現実を見渡すと、ほぼ願望実現してる自分だと気づきました。
朝起きて、立ち上がることも、顔を洗うことも、ご飯食べること。
全てが願望実現じゃーん!!

私は、108さんがいつも言う「充足を見る」が苦手でした。
叶えたい願望は叶ってねぇのに、何で小さな充足を見なきゃいけないんだよ!虚しいだろが!!!と思ってましたw

もしかすると、小さい充足を見つけることにより、私が最初から願望実現できる自分であった!!!(というか最初からあり、どこを体験しようか選ぶだけ、というか本当は別の領域に選ばされてる?)と気づかせるのが108さんの狙いだったのか?と思いましたw(違ったらすみません)
もう何者かにならなくとも私のままで良かった事が本当に腑に落ちたので、これからは安心して生きていきます😍www
今度セミナー参加するときは、いろんな実現報告をするためだけに参加したいなぁwww

108さん本当にありがとうございました(^^)

参考元サイト:今この瞬間を全力で体験する⑤その2

【108さんのコメント】
ああ、良かったですね。
実現報告楽しみにしてますね^^

そうなんですよ。
だから、小さい充足とおっしゃってるが実はそれは小さい充足じゃない。

朝起きて立ち上がること、顔を洗うこと、ご飯食べること。
それなんのことはないじゃんと思ってるかもしれないが、重大な事なんです。

それを願望実現じゃんと思ったということは、それは正しい。
実際にはそうなった形で、自分が思ったことがもう実現していってるわけだから。

小さいと思ってることでも、実際にはそれが体験できてる。
ということはそれはゴールにいるという、まさにそれ。

願望実現、充足に差異はない。
朝起きてご飯食べれたっていうことも、本願を実現したってことも同じ。
その時同じ状態。

つまり、朝起きてご飯食べると本願成就は同じ。
同じもの。

朝起きてご飯食べたってことは本願成就したのと全く同じこと。
本願成就をその時してる。
その地点にいる。
だからそれがゴールなんですっていうこと。

そういう観点で見ていくと、この目の前の充足を見逃すなんてなんてもったいない惜しいことをしてたんだっていうことになる。

それをもっと大切にしていこうと。
それでゴールを体感できるわけだから。
その時もう全ての充足が全部入ってる。

まさにその一点にある。
同じ一点。

それに気づけば、まさに小さい充足に無理やり意識を向けようではなく、あ、これ体験できて良かったというふうになっていく。

これまで小さいと定義していた充足も、もっと体感できるようになってくる。

嬉しい♪になっていく。
嬉しい~安~いになってくる。
デーブイデー、シーデーになってくる。
ほんとほんと楽しめま~すになってくる。

だからそういうふうになっていったほうがいい。
頭でどうこうではなく、目の前のことにも全力で体験するとやっていく。

充足に敏感になれば、例えば今まで充足を10パーしか体感しなかったのが100パー体感できるようになってくる。
そしたらご飯とかでも美味しい♪となる。
幸せ♪ってなる。

その幸せは、ここに到達したら体験するぞと思っていた大きな充足と全く同じものだということに気づいていく。
そしたらもう毎日幸せになる。

振動数が幸せだから、もうどんどんどんどん幸せを体験していくことになる。
そうなれば願望実現が難しいと思っていた本願みたいなことも範囲内に入ってくるようになる。

願望実現も含めて充足を体験することが容易になってくる。

だから、なんというか目の前の日常の充足というものを味わうというか。
喜んで体験するような意識を持ってみて下さいということ。

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