【動画まとめ】楽になる=ゴール
108さんの動画『楽になる=ゴール』のまとめ。
願望は手放せといいますよね。
願望や問題は神に任せろと、そう考えてた時その瞬間は楽になれてたんです。
でも相変わらず現実何も変わらなかったけど。
だけど向きと聞くと、自分にはまだやるべきことがあるんだと感じます。
この問題が解決できないのは自分のせいじゃないとか、充足を経験することに対して私は一切関与していないとか、でもあなたの経験することはあなたの向き次第ってやっぱり自分の責任じゃないですかと思います。
そのあたりのバランス感覚がわからない。
向きとかいってまた同じ嫌な現実が繰り返されるばかりで、自分にはこの現実を変える力なんて無いんだと心折れてます。
不足の地点から向きを意識すると無意識化でコントロールしようとしている、しなきゃ、できるんだみたいな感じ。
嫌でもそうなってる。
気楽に簡単になんて出来やしない。
108さんと自分では恐らく前提が違う。
立っている場所が。
認識変更されているか否か、そういうのって結局認識変更されたからでてきたメソッドなんじゃないですか?
まずあるという立ち位置に立っているからできるわけで、前提・立ち位置っていうのがあまり強調されてないけどだいぶ重要な気がしますよ。
まずこの点について答えておきます。
つまり僕とかは、認識変更とかしたからそういうことがその立場から言えるんだが、そうじゃない人はそう言われてもできないよということを仰りたいんだと思う。
そういう趣旨だと思う。
僕は自分しかわからないことは一切言っていない。
これまでも。
そういうスタンス。
それが僕の立ち位置。
分からない人ができるように。
認識変更とか関係なく。
今、どんな人でもできることを言っている。
向きがそうなんだから私にはできないよ・・・ということにして、できないことにしたいだけ。
非難してるんじゃない。
そういうメカニズムがあるってこと。
向きっていうのは、できるできないのことではない。
何遍も言うが、視点をこっからそこへ移すだけのこと。
向きってそれだけのこと。
それができない人はいない。
こっちには向けないとはならない。
いや、「向かん!」とやっている。
そんなつもりはない、と仰るでしょうけどそう。
「向かんぞ」と、おいそれとやっている。
子供とか犬、猫とか見てみたらいい。
基本的に彼らは、思うがままで自分が思ったようにしかしない。
嫌なことはしない。
あっち行きたいと思えばあっちに走って行ってしまう。
僕らはいろんな条件が作用して、思ったようにしちゃダメだと思ってしまう。
十分に吟味してからその行動をとらなきゃ。
じゃないと失敗して痛い目にあったりするし。
でも、本当は僕たちもできる。
子供と一緒にそっちに走っていける。
急に車とか来るかもしれないから危ないって話だが。
そりゃそうだが。
ただ、その能力はある。
大人になったからできないというわけではない。
誰でもできる。
だから視点を動かすのは誰でもできるんだから、向きを変えるのも誰にもできる・・・ということを言っている。
神に任せたけど、その瞬間は楽になれた。
でも相変らず現実は何も変わらなかったけど・・・
本当は手放した時点で終わり。
つまり手放したとは、肩から荷を下ろしたってこと。
ギューッとやっているのをパッと離した。
だから楽になった。
もうこれやらなくていいんだとなった。
本当はそれがゴール。
そのままでいればいい。
それをまた見てしまう。
手放したんだから、現実も自分が思ったように好意的に変わるはずだろうみたいに思ってしまう。
本当は手放したことがゴールで、その充足はもうゴール。
ラーメン食べた充足と一緒。
願望実現した充足と一緒。
本願を叶えた自分と一緒。
難題をクリアした自分と一緒。
手放した時にふっと楽になる。
しょったものを放り出して「ああ~良かった」となっている時はその次元にいる。
もうそうなってる。
「ゴール!」とゴールしている。
で、また振り返り「ちょっと待て、まだ片付いていないぞ」と言ってまたゴールから出てしまう。
また逆の方向に行ってしまう。
その時はゴールから出てしまっている。
楽になったから叶うはずだよな・・・となっている。
じゃくて、その時に叶っている。
その自分だと意識してみたらいい。
この手放して楽になったのがゴールなのかと、考慮してみたらいい。
考慮も僕は言うが信じろとかいうことじゃない。
これがそうなのかな?と疑ってみる。
そしたらそういうのが見えてくる。
今楽になったけど、全然何も解決していないじゃんとかある。
その瞬間は見えてないから、今気分は楽になったけど願望実現には程遠い状態だしみたいなことになる。
瞬間的にパッとそれが実現すれば、本当にイコールなんだなとわかるが、そうなってないからその人の中ではイコールになっていない。
まだ時間かかるんだろう・・・とか、手放してだいぶ経ってからそうなるんだろうとか、影響してからその次元に変わるまでは時間がいるんだろうみたいなことを思ってしまうが違う。
手放した時点でそうなってる。
その自分になっている。
だからそう思ってみたらいい。
ひょっとしたらそうなのかな?
これゴールなのかな?
こうしてるから自然に叶っていくんではなくて、もうひょっとして叶ってるのか?
自分はその物理次元にいるのか?見えないだけで・・・と思ってみればいい。
そしたらそれは叶ってない現実というのが幻想だったという証拠が出てくる。
証拠が出てくるというのは勝手にそうなっていくということ。
それが見えてくる、体験していく。
それをこうなったからだいぶ経って待たなきゃみたいな考え方だと「んーならないじゃん」となってゴールから出てしまう。
ちょっと待って、間違ってたか俺⁉となってしまう。
やり方間違ってたのかな、これ違ってたのかなみたいな感じ。
そうやって「あれ、間違ってた?」となってしまうからまたそこから出て違うことになってしまう。
「もうゴールなのかもな・・・」と思ってみること。
そしたらちょっと視野に入ってくることになる。
視野に入ってくるということは、それを体験・知覚できるようになってくるということ。
本当だった!みたいな。
こうやって手放したことで、いずれこれが現象として出てくるんだろうみたいに捉えているからそこを間違ってしまう。
ゴールから出てしまうということはそういうこと。
ジリジリと待ち構えるようになってしまう。
そうするとまた握っていることになってしまう。
元の木阿弥じゃないが、またそっちを向いてしまう。
だからこれゴールなのか?とその都度思ってみたらいい。
これまでの体験とは関係なく。
これまでだったらその定義に従って、今楽になったがどうせまた何も起こらないだろうと思ってるとそっちを向くことになる。
じゃなくて、これ今ゴールなのか?この状態と疑ってみる。
何も望むことが顕現していないように見えるけど、これゴールなのかひょっとして?というように考慮してみる。
そしたらちょっと意識が変わってくる。
今の自分はそう決めてたからそうなってたのか?ひょっとして?ということがだんだんわかってくるようになる。
バカなことしてたな、じゃあそれやめようとなる。
やるべきことをやめろってこと。
やるべきだと思ってる事、四苦八苦してることをやめなさいと僕はずっと言っている。
ずっと一貫している。
チケットのもっと前から言っている。
そう。
充足は受け取るものだから。
だから向きだけ。
向いたほうのことが見えますよってこと。
取りにいくものではない。
受け取るものですよってこと。
キャッチボールする時は、相手から投げられたらグローブで受ける。
向こうから投げてきているのに、こっちから取りにいったらうまく取れない。
もらおうとして、引いて受けようとする。
その姿勢。
だから一切関与していないということはそういうこと。
充足は一方的に受け取るということ。
僕たちの充足は全部本当はそう。
全部一方的に受け取っているものしかない。
自分で作りだしたぜと言ってるが、そんなものはひとつもない。
そのように認識してるだけ。
自分の手柄にしたいからやり遂げたぜと思い込もうとしてる。
こうやったからこのようにできたんだと言っているが本当は違う。
本当のメカニズムのところではそんなことはあり得ない。
僕たちは充足を作れない。
それは重々思っておいた方がいい。
作りだすことなんか不可能。
だから受け取るだけでいいんだとなれば謙虚になる。
充足をじゃあ受け取ろうとなる。
今までは取ろうとしてたけど、受け取ればいいのかとベクトルが180度変わる。
それが正しい。
そしたら余計な力が抜けて脱力する。
受け取るのに適した姿勢になっていく。
そう考慮してみる。
そこにもう集中しない。
それを思っていると、またそれを経験するサイクルになってしまうのでそれをやめる。
で、不足は幻想なのでそんなこと本当は起きちゃいない、てことを考慮してみる。
本当にあるのは充足だけ。
不足というのは実際にあるものではない。
本当に経験しているように思えるけど違うのか?ってそこも考慮してみるといい。
そうするとだんだん錯覚が解けていく。
現実上でその不足は消えていくということ。
じゃなくて、不足の地点からというのをやめる。
たった今それをやめる。
不足の時点と言っているその定義をやめる。
じゃないかもしれないということ。
不足の地点と言ってるけど違うかもしれない今は・・・と考慮してみる。
そうすると変わってくる。
そんなことしなくていいです。
コントロールは必要ない。
コントロールすることではない。
コントロールはやめろってこと。
コントロールしようとするからボールを取りにいこうとしちゃう。
これ掴まえなきゃとなってしまう。
じゃなくてもう向かってきているんだから、それを受け取るだけでいいんだよってこと。
気楽にできるというよりは気楽になること。
気楽になればイコール自分が不足だと思うことは何もなかったということになる。
そこで苦労することではなかった、自分がやることではなかったと気づく。
気楽になっているということは、肩から荷を下ろしているので楽になっている。
ということはゴールにいるわけなので、それが見えてくる。
そこでまだ何かしようということではない。
そこがゴール。
ひょっとしてこれゴールなのか?と思ってみる。
思って考慮してみて。
それが立ち位置を変えるということ。
そこで認識が変わっている。
これゴールなのか?と思っているということは、これまでの自分の定義を180度変えてみた、考慮してみたということ。
そっから始まる。
それがすべて。
認識変更できてないよっていう状態から変わるにはまず疑うということ。
この決めつけてるこれ違うんじゃないか?って。
そこについている頑なな定義を一回ちょっと疑ってみて下さい。
たぶん違うものが絶対見えてくると思う。
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