シリーズ適切性と一致する 4-3 まとめ
シリーズ適切性と一致する 4-3 のまとめ。
◆カワウソが好きな人さん
まだ結果でてないですがアドバイスです
自分は「その都度やる」っていうのが辛かったので1日一回やるっていうふうにしてます
そしてだんだん数を増やしていこうって感じです
それでもつらければ2日に一回でもいいし1週間に一回でもいいと思います(たぶん)
「辛いけどやらないと」ってよりは圧倒的に楽なので上記のやり方をおすすめします
学校のことなどで焦ってしまうこともありますが自分はなるべくゆるーく行きたいと思います
P.S 自分の言葉じゃないですが置いておきます
「つらいと思ったらハードルを下げればいい。ハードルを設定しているのは自分だからね」参考元サイト : 適切性と一致する3
【108さんのコメント】
そうですね。
回数も斬新的に増やしていかなきゃいけないよってことでもない。
別に思いついた時にやるでいい。
何回かやったことで効果が出てくることではない。
そんな話ではない。
増やしてもいいが、増やさなければいけないってことではない。
辛い時にパッと「適切性とはなんだろう?」と思いやすいと思うが。
辛いことがなくてもやっていい。
集中しているところからパッと離れるようにすれば楽になると思う。
意識したことによって実像のところの充足に触れたことになる。
そしたら充足が流れ込んでくるから、直接そのことを解決しようとしなくてもあとはお任せみたいなかたちになると思う。
◆Rei Fukaiさん
108さん
適切性について質問です。108さんの著書『DEBUG』の中では、適切性とは今この瞬間を全力で経験すること、目の前の状況にしっかりと焦点を合わせること、と書いてありましたが、「全力で経験」というのが抽象的で分からなかったので詳しく教えて頂けないでしょうか。
前回の動画のヤスさんの場合(お嬢さんの志望校が変わって学費がぴったり工面できることになった方の話です)、色々と不安を持ったまま「適切性って何だろう?」と思っただけ、とおっしゃっていましたが、これはDEBUGの「全力で経験」とは、あんまり合わないような気がして…。
別のやり方なんでしょうか?不正プログラム上で矛盾しない行動を取ることは、本当の適切性ではない。これは分かります。
ただ、「全力で経験する」が、具体的にどういうことかがよくわからないのです。DUBUGの例にある、崖から落ちそうな時とかだったら多分必死に助かることに集中すると思うんです。
そういう極限状態じゃない、ヤスさんの場合のような時、つまり「頑張って稼ぐ」とか「借りる」といった不正プログラム上で矛盾しない行動の選択肢がある時、「全力で経験する」とは具体的にどういうことでしょうか?
教えていただけるとありがたいです。
参考元サイト : 適切性と一致する3
【108さんのコメント】
「『DEBUG』の中での適切性とは今この瞬間を全力で経験すること」は今言っている適切性と一致するとは違う意味で言っている。
「今この瞬間を全力で経験する」は、今この瞬間に意識になるってこと。
今自分にとって不都合な状況だとすると、思考によってこの解釈を変えられないかとする。
そうすると全力で体験できていないことになる。
思考のほうにいっているから。
言い方を変えれば、今この瞬間にとどまるということ。
経験の方に。
思考ではなくて今この瞬間にとどまって体験をする。
状況が不足に見えようがそうじゃなかろうが関係なく、この瞬間にいることになる。
とどまって、思考じゃなく経験しようと。
今この瞬間にとどまるということは、思考のほうにいっちゃってると今この瞬間適切性も何もなくなる。
思考は幻想の世界に行ってしまうので、一致しようもない。
まずここにとどまれば、ここでの適切性というのがとらえやすくなると思う。
思考でやってしまうと逃避するようなとになってしまう。
状況がどうであれそこにとどまって全力で(全力という言い方が腑に落ちるかわからないが)この状況を感じて経験しよう、体現しよう、謳歌しようみたいなこと。
不足を謳歌するってどういうことだよってなるかもしれないが、その不足・充足というのは自分の頭が決めていること。
この体験を謳歌しよという意識になれば、不足・充足というレッテルが剥がれる。
全力でここを体験しよう、存分に謳歌しようということになれば、まさに今この瞬間にとどまれるようになる。
全力で今この瞬間を謳歌しようという姿勢をとっていけば、今この瞬間適切性が見えなくてもピタッと一致しやすくなる。
自然とピタッと一致することになるので、そういう意味では謳歌するということは適切性と一致するということになる。
原理的な説明をすればそういうこと。
ヤスさんは極限的状態じゃないと仰ってますが、多分ヤスさんはヤスさんでその時は極限的状態だったと思う。
これはどうすればいいんだ!と追い詰められたような感覚だったと思う。
経験するというのは、自分で働けかけることではない。
今を謳歌して自分で意識してそうしようとする。
思考で解釈するのではなくてこの瞬間にとどまろうということ。
そうすれば、不足だなんだ問題だっていうレッテルは消えていく。
実際、この瞬間に問題はないので。
ということが感じられるようになってくると思う。
とても抽象的な話になってしまったが、ニュアンスで感じ取ってもらえばいいと思う。
全力で経験は、適切性と合わないことはない。
姿勢としては適切性と一致するのに適した姿勢になる。
今この瞬間にとどまるので。
思考にないので。
私達は思考にいってしまう。
思考を活用してそっちの世界にいってしまうので、ここでの適正性は何だろう?と言えば思考の世界ではなく実像の世界にいってる。
そっちを意識するようなことになれば、そっちを触ることになるということ。
思考をしないで全力で謳歌するぞという姿勢になり、今この瞬間にとどまれば、今この瞬間とどまっているので実像に触れるには一番近い位置にいることになる。
アプローチが違うだけ。
全力で経験するという意味は、意味がわかりにくかったかもしれないがそういうこと。
エネルギーを出すようなことではない。
今のこの瞬間に意識的になるということ。
思考ではなくてということ。
◆N Wさん
その時適切性を意識して、その後は自分の思うままにすれば良いと108さんはおっしゃいましたが、それはその後選択した事が間違っていてもあるべきところにちゃんと勝手に収まるということでしょうか?
ちゃんと軌道修正されるの?今、2つの選択肢をすごく迷っているんですがその都度適切性はなんだろうと意識して、でも結局自分で選択したけどこれが良かったのかもう一つの選択肢に後ろ髪引かれる毎日でして…
参考元サイト : 適切性と一致する3
【108さんのコメント】
適切性と一致すれば、ここで何しているか関係なくなってくる。
今は自分が選択次第によって充足になったり不足になったりすると思ってるが、それが関係なくなる。
関係なく充足になるってことは、極端なことを言えばその選択はどっちでもよくなる。
その選択いかんに関係してこなくなる。
適切性だけ意識しておけば、自分の選択に責任を負わなくてすむようになる。
自分なりに考えていいほうを選択しようと思うし、そうしたらいいと思う。
瞬間的に失敗したと見えても、最終的にはならない。
選択を失敗したけどより良かったみたいなことになる。
選択失敗したと思ったけど、、結果的にそっちのほうで良かったんじゃんみたいなことになってくる。
修正されるっちゃされると思うが、自分の選択を重要視しなくなる。
気軽に選択できるようになる。
気軽にすれば何も乗せてないから、現実点でのより適切なほうを選びやすくなる。
これまでは自分の選択に全部乗っかってたから、間違ったら大変だからと重い選択になってた。
適切性を意識すれば、そっから充足が流れ込んでくるとわかっているので気楽に選択できる。
自分の選択は、自分の充足が作用しないとわかれば「はい、こっち!」と簡単に楽に決められる。
その時は楽なほう向いてるので、現実の観点からしても選択も充足に叶ったことになるよということ。
だから深刻になる必要はない。
適切性だけ意識しておけば大丈夫。
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